先日、旦那氏に餃子を焼いてあげた。
ついでに、わかめスープと、チキンラーメンもつけてあげた。
そうしたら、とても喜んでもらえた。
旦那氏「昨日まさに、仕事帰りに餃子を食べてこようと思ったけど、お店が閉まってたんだよ~~!!やった~~!!」
と言われ、私も嬉しくなった。
目次
私は普段から家事がしんどい。
私は普段から家事がしんどい。
ごはんを作るのも面倒くさい。
洗濯するのも面倒くさい。
でもそう考えて、嫌だな嫌だな、って気持ちで行動すると、どんどん世界が狭く硬くなっていく気がしていた。
神として自分の世界を豊かにするために。できることをひとつしてみよう。
家事の話はさておき。
自分は、自分の世界の神だから。
神の視点で世界を考えたとき、自分は世界をどうしたい?
と考えた。
狭く硬いのは嫌だ。
外に外に拡大して、豊かに元気に繁栄してほしい。
そのためにできることは何?
周囲の人に良い影響を与えることではないかな。
周りの誰かを喜ばせてあげることではないかな。
その喜びは、さらにその人の周囲へ、と拡大していく。
なら、自分ができることを、とりあえずひとつしてみよう。
自分ができることを出し惜しみしてしまったら、世界が巡らない。
自分の世界を豊かにするために。
神として、何をしよう?
あ、冷凍庫に餃子がある。
旦那氏餃子大好きだから、餃子焼いてあげよう。
(基本、普段ごはんは各自別々)
今日のコンディション的に、餃子を焼いてあげるのは、特に負担じゃない。
神、世界を豊かにするために、旦那氏に餃子を焼いてあげちゃうよ。
私「餃子食べる?」
旦那氏「え?!あるの?!食べるうう!!」
嬉しそうに餃子を食べる旦那氏を見て、私も嬉しくなった。
二人が嬉しい気持ちになった後は、さらに二人から周囲に良い波長が広がっていくだろう、と想像した。
そしてその先の人たちも。
さらに豊かな気持ちになった。
同じ行為でも、気持ちひとつで意味がかなり変わる。
餃子を焼いて、ご飯を用意することひとつでも、
「面倒くさい。でも、生きていくためにはしかたがない。」
と重い気持ちでこなすのと。
「餃子を焼いて、旦那氏を喜ばせてあげよう」
と思ってやるのでは、まったく意味が違うと感じた。
「レンガ積みをする3人の男」の話。
ご存知の方も多いかもしれないけれど、「レンガ積みをする3人の男」という話がある。
1人目の男はこう言う。
「朝から晩まで、俺はここでレンガを積まなきゃいけないのさ。
暑い日も寒い日も、風の強い日も、日がな一日レンガ積みさ。
腰は痛くなるし、手はこのとおり」
なんで、こんなことばかりしなければならないのか、
まったくついてないね。
もっと気楽にやっている奴らがいっぱいいるというのに・・・」
2人目の男はこう言う。
「俺はね、ここで大きな壁を作っているんだよ。
なんてことはないよ。この仕事のおかげで俺は家族を養っていけるんだ。
ここでは、家族を養っていく仕事を見つけるのが大変なんだ。
俺なんて、ここでこうやって仕事があるから家族全員が食べて
いくことに困らない。大変だなんていっていたら、バチがあたるよ。」
3人目の男はこう言う。
「俺たちは、歴史に残る偉大な大聖堂を造っているんだ!
ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを払うんだよ。
素晴らしいだろう!」
参考元:https://www.facebook.com/jacandthebeanstalk/posts/351100574968192
パッと見は同じ行動をしていているように見えても、本質的には全然違う行為。
そして、3人目の男の世界は、きっとどんどん豊かに、広がっていくと思う。
まとめ
多分、自分が自分勝手に思いこんで、重くしている動作ってたくさんあると思う。
ひとつひとつを見直して、
「本当は豊かな行為なんだよ」
「豊かな行為を毎日楽しく積み重ねたら、さらに豊かさは拡大するんだよ」
と、再確認していこうと感じた。